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質問:浄土真宗は東と西、何故分かれているの?

Q&A

質問:浄土真宗って東とか西とか何故分かれているのですか?

A:この理由は諸説あるようです。調べてみましたのでご覧下さい。

 

まず浄土真宗の教え(内容)は親鸞聖人が「浄土宗の教え」、そして親鸞聖人が師事した浄土宗開祖法然上人(1133~1212)の教えを追究したものです。浄土真宗として単体の宗派になったのは親鸞聖人の没後、第3代法主覚如の頃と言われています。時代は鎌倉時代でした。

親鸞

 

浄土真宗は一つの宗派として大きくなり、門徒も増えました。

昔の宗教というのは教えを広げ、思想を同じくする方々が集い、お経をあげるだけではなく武装もしていました。浄土真宗は戦国時代、大名に匹敵するほどの強大な組織に成長していました。それを脅威に感じ攻勢に出たのが織田信長です。

織田信長

 

当時、浄土真宗の本山は大阪本願寺(石山本願寺)でその住職は第11代目法主顕如でした。信長浄土真宗への攻勢を開始し本願寺も応戦しました。これが石山戦争です。この時浄土真宗の矢面に立ったのが顕如の長男である教如でした。この戦争は11年にもおよびました。この時代、勢いにのっていた信長相手に11年間戦い続けたことからも、いかに浄土真宗側の人数や財力がいかに凄かったのかが分かります。この戦いの終わり頃、信長側から和睦交渉があったとされています。条件はさておき、この和睦交渉に応じようとする顕如側と絶対に応じないとする教如側とで意見が分かれます。顕如は争いごとを早く終結させたい意向があったと思われます。しかし、教如は抗戦の考えでした。比叡山の焼き討ちをはじめとする仏教徒に対する仕打ちや、一旦和睦や同盟を結んでも反故にし、侵略してきた信長を考えると、この和睦を信用することができないという考えでした。結局1580年に和睦。浄土真宗は石山本願寺を明け渡し、京都七条堀川に移ることになりました。一説によると信長はこののち再度浄土真宗への攻撃の準備をしていたとの話しもあります。しかし浄土真宗もまた同じように攻撃に備えていたとも言われています。

1582年6月21日、本能寺の変により浄土真宗は織田勢に攻められることは無くなりました。明智光秀も考え方によれば、浄土真宗の救世主と言えるかもしれません。

明智光秀

 

この後、世の中は豊臣秀吉の天下になります。

豊臣秀吉

 

1592年に顕如が示寂(位の高い僧の死)されると教如が法主となりました。当時法主は前法主の譲状(ゆずりじょう)により指名されることが慣例となっていましたが、顕如の場合はその作成がされないまま教如に継承されました。このことと、教如が法主就任後に石山戦争での協力者を側近に連ね顕如とともにあった穏健派を登用しなかったことで宗派内に派閥が生まれるようになりました。そんな中、顕如の妻である如春尼が秀吉顕如が書いたとされる譲状を提出しました。そこには教如の弟である准如を法主として指名する内容が記されていました。秀吉は教如へ10年後に法主を引退し准如を法主にするよう伝え、教如もその指示に従うように振る舞おうとしましたが、教如の側近たちが憤慨し秀吉に直訴しました。しかし、これが逆に秀吉の怒りを買い、即刻准如へ法主の座を譲るよう命令が下り、教如は隠居することになってしまいました。

この背景には、教如顕如存命中から千利休に近づこうとしていたこともあるようです。豊臣政権に近づくことが目的でしたが、千利休が失脚・自害(1591年)したことで、反利休派の石田光成らが顕如示寂後、准如の法主就任を本願寺幹部に促したことも関係しているとも言われています。

1598年に秀吉が亡くなると、教如徳川家康のもとを訪れます。

徳川家康

 

教如は法主を退いた後も教団のために法主としての活動をこなしており、この頃から教如派と准如派に教団内部が割れていました。1600年関が原の戦いで石田光成率いる西軍には准如派が、徳川家康率いる東軍には教如派がつきました。

東軍勝利の後、家康は七条堀川の本願寺の一角にある堂舎を、京都府京都市下京区烏丸七条に移し、さらに慶長8年(1603年)、上野国厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎えました。

 

これが浄土真宗東西分裂の経緯です。

ただ、どちらも親鸞聖人からの教えを継いでいることには変わりません。同じ浄土往生という考えを継いでみえるのです。

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